ニコラ=ジョゼフ・キュニョー(Nicolas-Joseph Cugnot, 1725年9月25日 – 1804年10月2日)は、18世紀フランスの軍事技術者であり、蒸気動力を用いた大型運搬車の開発で知られる人物です。本記事では、自動車の歴史からは一歩離れ、彼の生涯と軍事技術者としての業績に焦点を当ててまとめます。

出自と軍事技術者としての道
キュニョーは、ロレーヌ公国(現在のフランス東部)で農家の子として生まれました。若い頃から技術に関心を持ち、オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)のブリュッセルで軍事技術の教育を受けます。
23歳のとき、ウィーンに赴きオーストリア軍に入隊。当時のフランスは七年戦争(1756–1763年)での敗北を受け、軍事力の再建に力を入れていました。キュニョーは、フランス軍がオーストリアに貸し出していた部隊に所属し、砲兵隊の指揮官ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルの推薦を受けて重要なプロジェクトに関わります。
18世紀ヨーロッパの軍事と技術とは?

キュニョーが活躍した18世紀のヨーロッパは、戦争と技術革新が密接に結びついていた時代でした。七年戦争ではヨーロッパ全体が戦火に巻き込まれ、各国は効率的な兵站(物資輸送)や、強固な要塞の設計、精密な測量技術などを競っていました。キュニョーのような軍事技術者は、その最前線にいたのです。
軍事技術者としての業績
キュニョーは、要塞建設や測量、大砲の配置などの軍事工学に携わり、パリでは軍事教官として教育や技術開発にも取り組みました。
主な著作には次のようなものがあります:
- 『軍用兵器のすべて、昔と今』(1766年)
- 『防御(要塞)理論』(1768年)
- 『野戦時の防御、理論と実際』(1769年)
- 『防衛理論』(1778年)
また、騎兵用の新型ライフル銃も開発し、フランス政府から年金を受けた記録もあります。
キュニョーは何をしていたの?
彼の仕事は、現代でいえば「軍事インフラの設計者」。戦場においてどこに砦を建てるべきか、地形はどう利用するか、大砲をどう配置すべきか――そのような判断を支える理論や技術を構築していたのです。戦争の勝敗を左右する重要なポジションでした。
ミニコラム:18世紀の技術書とは?
キュニョーの著作は、図や計算式を駆使しながら、実際の戦場で役立つ知識を解説していました。現代で言えば「軍事マニュアル」や「理論書」に近い性質を持ち、若い士官や技術者のバイブル的存在でした。印刷技術が発展途上だった当時、こうした書物は貴重で、広く流通していなかった分、専門性は非常に高かったのです。
晩年とフランス革命
キュニョーは1779年、政府から年660リーブルの恩給を受けるようになりますが、フランス革命の混乱によって支給が途絶えます。その後はブリュッセルに逃れ、貧しい生活を余儀なくされました。

1798年、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征の前にアカデミーでキュニョーの業績を取り上げたことで、一部で再評価されましたが、大きなプロジェクトに関わることはなく、1804年に生涯を終えました。
豆知識・Q&A:キュニョーってどんな人?
- Q:キュニョーは裕福な家の出身?
いいえ、農家出身で苦学して技術者になった人物です。 - Q:発明で生活できた?
一時的に年金を受けていましたが、革命で打ち切られ苦しい晩年でした。 - Q:性格は?
資料は多くありませんが、研究熱心で実直な人物と伝えられています。
まとめ
ニコラ=ジョゼフ・キュニョーは、軍事技術者として18世紀ヨーロッパの軍事改革や技術発展に貢献しました。彼の生涯は「兵器や要塞は戦争の裏で誰が支えていたのか」を教えてくれます。発明家としての側面だけでなく、現場で戦いを支えた知恵と工夫の人として記憶されるべき人物です。
参考文献
👉この人物が登場する時代の歴史はこちら → 第1回|【衝撃】自動車のはじまりは1769年!?キュニョーが作った“動く砲車”の真実