■ はじめに
1920年代のフォード・モーター・カンパニーは、栄光と試練が交錯した激動の10年間だった。この時期、モデルTは史上最高の販売記録を達成し、1923年には年間200万台を超える生産を実現して自動車産業の頂点に立った¹。しかし同時に、ジェネラル・モーターズ(GM)のアルフレッド・スローンが推進する多品種戦略とスタイル重視の新しい市場アプローチが、フォードの単一製品戦略に深刻な挑戦を突きつけていた。
1928年に完成したリバー・ルージュ工場は、世界最大の垂直統合工場として鉄鉱石から完成車まで一貫生産を実現したが、皮肉にもその完成時にはモデルTの時代は終わりを迎えていた²。1927年5月26日、第15,007,034台目のモデルTがライン・オフすると同時に、19年間の生産に幕を閉じ、フォードは新たな挑戦者モデルAの開発に全力を注ぐことになる³。この10年間は、フォードにとって最後の「支配的地位」の時代であり、同時に競争時代到来への転換点でもあった。
🏭 リバー・ルージュ工場建設と垂直統合の完成(1921-1928年)
1917年に着工されたリバー・ルージュ工場は、ヘンリー・フォードの究極の野心を体現した巨大プロジェクトだった⁴。11年の歳月をかけて1928年に完成したこの工場は、総面積1,100エーカー(約4.4平方キロメートル)、延床面積1,600万平方フィート、93の建物群から構成される世界最大の工業団地となった⁵。
リバー・ルージュ工場の革命的な特徴は、その完全な垂直統合システムにあった。五大湖から運ばれた鉄鉱石と石炭が工場の専用岸壁に荷揚げされ、高炉で溶解されて鋼材となり、最終的に完成車として出荷されるまで、すべての工程が一つの工場内で完結していた。
⚙️ リバー・ルージュ工場仕様(1928年完成時)
設備・機能 | 規模・能力 | 技術的特徴 |
---|---|---|
高炉 | 4基 | 日産鉄鋼1,500トン |
発電所 | 75,000kW | 自家発電で工場全体をカバー |
ガラス工場 | 年産300万平方フィート | 自動車用強化ガラス製造 |
製材所 | 日産木材5,000立方フィート | 内装・梱包材用 |
鉄道 | 100マイル | 工場内専用輸送システム |
従業員数 | 最大10万人 | 1930年代ピーク時 |

工場の心臓部となる最終組立ラインでは、1日最大4,000台の自動車が生産可能だった⁶。この驚異的な生産能力により、フォードはモデルTの価格をさらに下げることができ、最安価格260ドルという水準を実現していた。

📈 モデルT黄金期と生産記録達成(1921-1925年)
1920年代前半は、モデルTにとって真の黄金期だった。アメリカ経済の好調と中産階級の拡大により、自動車需要は爆発的に増加し、フォードはその恩恵を最大限に享受した。
1923年は、モデルTの歴史上最も輝かしい年となった。この年の生産台数は2,011,125台に達し、自動車産業史上初めて単一車種で年間200万台の大台を突破した⁷。この記録は、競合他社すべての合計生産台数を上回る圧倒的な数字だった。
📊 モデルT生産実績・市場シェア(1921-1927年)
年度 | 生産台数 | 販売価格(ドル) | 市場シェア(%) | 主要競合車種 |
---|---|---|---|---|
1921 | 971,610 | 355 | 61.5 | エセックス、オーバーランド |
1922 | 1,301,067 | 319 | 60.7 | スター、シボレー490 |
1923 | 2,011,125 | 290 | 57.2 | シボレー・スーペリア |
1924 | 1,922,048 | 290 | 45.1 | シボレー・スーペリア |
1925 | 1,911,705 | 290 | 40.8 | シボレー・スーペリア |
1926 | 1,554,465 | 290 | 30.5 | シボレー・スーペリア |
1927 | 399,725 | 290 | 15.7 | 生産終了(5月26日) |
1923年の成功により、フォードは世界の自動車生産台数の半分以上を占める圧倒的地位を確立した。当時のヘンリー・フォードは「顧客は黒以外のどんな色でも選べる」という有名な発言で、効率性重視の経営哲学を表現していた⁸。
🏆 競争激化とGMの挑戦(1924-1927年)
しかし、1924年頃から市場環境は劇的に変化し始めた。ジェネラル・モーターズ(GM)のアルフレッド・スローンが推進する新戦略が、フォードの牙城を切り崩し始めたのだ。GMは「あらゆる価格帯とあらゆる目的に適した車」というスローガンのもと、シボレー、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、キャデラックによる価格帯別ブランド戦略を展開していた⁹。
特に深刻だったのは、シボレーの躍進だった。1923年に登場したシボレー・スーペリアは、モデルTとほぼ同価格でありながら、より豪華な内装、カラーバリエーション、そして何より3速マニュアルトランスミッションによる優れた走行性能を提供していた¹⁰。
⚙️ 主要競合車比較(1925年)
車種 | 価格(ドル) | エンジン | トランスミッション | 特徴 |
---|---|---|---|---|
フォード・モデルT | 290 | 2.9L直4・20hp | 2速プラネタリー | 黒色のみ |
シボレー・スーペリア | 525 | 2.8L直4・20hp | 3速マニュアル | 複数色選択可 |
クライスラー・70 | 1,395 | 3.3L直6・68hp | 3速マニュアル | 高性能エンジン |
ダッジ・ブラザース | 885 | 3.5L直4・35hp | 3速マニュアル | 頑丈な構造 |
1925年には、シボレーの年間販売台数が初めて50万台を突破し、フォードのシェア低下が明確になった。消費者の嗜好が実用性重視からスタイルと快適性重視に変化していることは明らかだった。
🔄 モデルT生産終了と新車開発への転換(1926-1927年)
市場シェアの急速な低下に直面したヘンリー・フォードは、ついに重大な決断を下した。1926年後半、19年間生産を続けてきたモデルTの生産終了と、全く新しい車種の開発着手を発表したのだ¹¹。
1927年5月26日、記念すべき第15,007,034台目のモデルTがハイランドパーク工場のラインから送り出された¹²。この最後の1台は、ヘンリー・フォードと息子エドセル・フォードが自ら運転してライン・オフを行い、一つの時代の終焉を象徴する歴史的瞬間となった。

⚙️ モデルT生産終了の影響(1927年5月-12月)
- 工場閉鎖期間: 6ヶ月間(新車開発・設備更新のため)
- 一時解雇労働者: 約6万人
- 設備投資額: 1億8,000万ドル(新モデル対応)
- ディーラー在庫処分: 約50万台
- 競合他社シェア拡大: GM 43.5%、クライスラー 8.7%に上昇
モデルTの生産終了により、フォードは一時的に市場から姿を消すことになった。この半年間の空白期間中に、GMとクライスラーは積極的にシェアを拡大し、フォードの復帰を待たずに市場構造の変化を加速させた。
🚗 モデルA開発と1920年代末の復活戦略(1928-1930年)
1927年12月2日、フォードは満を持して新型車「モデルA」を発表した¹³。モデルAは、モデルTの教訓を活かして開発された全く新しい設計の自動車だった。3.3リッター直列4気筒エンジンは40馬力を発揮し、3速マニュアルトランスミッションと組み合わせることで、競合車種に匹敵する性能を実現していた。
最も重要な変更点は、カラーバリエーションの提供だった。モデルAは「アラビアン・サンド」「ボンニー・グレー」「ガン・メタル・ブルー」「ダーク・グリーン」など、複数の色が選択可能で、フォードは初めて消費者の多様な嗜好に対応した¹⁴。👉🏼カラー一覧
📊 モデルA初期実績(1928-1930年)
年度 | 生産台数 | 販売価格(ドル) | 市場シェア(%) | 備考 |
---|---|---|---|---|
1928 | 633,594 | 385-570 | 24.2 | 復帰第1年 |
1929 | 1,507,132 | 385-570 | 31.3 | 好調な回復 |
1930 | 1,155,162 | 435-600 | 28.8 | 大恐慌の影響開始 |
モデルAの成功により、フォードは再び市場の主要プレーヤーとしての地位を回復した。しかし、1920年代の終わりに始まった大恐慌の影響により、自動車業界全体が新たな困難に直面することになる。

■ まとめ
🎯 1920年代フォードの歴史的意義
フォード・モーター・カンパニーの1920年代は、「大量生産の完成」と「市場競争の始まり」という二つの側面で産業史に刻まれている。モデルTの1923年における年間200万台突破は、人類がかつて経験したことのない工業製品の大量供給を実現し、自動車を真の意味での「大衆の足」に変貌させた。
リバー・ルージュ工場の完成は、垂直統合による効率化の究極形態を示した。鉄鉱石から完成車まで一つの工場で生産するという壮大な構想は、製造業における「規模の経済」の可能性を最大限に追求した結果だった。日産4,000台という生産能力は、当時としては驚異的な数字であり、現代の自動車工場でも十分に通用する水準だった。
しかし、この10年間の最も重要な教訓は、技術的優位性だけでは市場支配を維持できないという現実の露呈だった。GMのアルフレッド・スローンが提示した「多様性による差別化」戦略は、フォードの「効率性による低価格化」戦略を根本から覆し、消費者ニーズの変化に対応することの重要性を証明した。
🔮 次の10年への転換点
1930年に向けて、フォードは全く新しい競争環境に適応する必要に迫られていた。モデルTの19年間にわたる成功体験は、同時に変化への抵抗という負の遺産も残していた。1920年代末期における半年間の生産停止は、市場シェアの大幅な喪失をもたらし、フォードの「絶対的支配」時代の終焉を象徴していた。
モデルAの成功は、フォードの技術力と適応力を示したが、同時に新たな課題も浮き彫りにした。多品種展開、スタイル重視、定期的なモデルチェンジという新しい市場要求に、フォードの組織と企業文化がどこまで対応できるかが問われることになる。
また、1929年10月の株式市場大暴落に端を発する大恐慌は、1930年代のフォードに未曾有の試練をもたらすことになる。リバー・ルージュ工場の巨大な固定費と、急激に縮小する市場のギャップをどう埋めるかが、次の10年間の最大の課題となった。
1920年代のフォードが築いた大量生産システムと垂直統合戦略は、その後の世界の製造業の基準となり、「フォーディズム」として20世紀の産業システムの象徴となった。しかし同時に、この時代に芽生えた「多様化による差別化」という新しい競争原理は、21世紀に至るまで続く自動車産業の基本構造を形成することになったのである。
📚 参考文献
- "1923: The Model T Ford's Biggest Year" - Mac's Motor City Garage (February 2025)
- "Ford River Rouge complex" - Wikipedia, Construction 1917-1928
- "MotorCities - Ford's River Rouge Plant" - Construction timeline and specifications
- "Rouge Plant Construction" - The Henry Ford Collections
- "Ford River Rouge Complex" - Library of Congress, 1,600万平方フィート、93建物
- "Ford's Rouge Assembly Plant Turns 100" - Assembly Magazine (2019)
- Ford Motor Company Production Records 1921-1927
- "My Life and Work" by Henry Ford (1922) - Philosophy and Strategy
- "My Years with General Motors" by Alfred P. Sloan Jr. (1963)
- "Model T Killer: 1925 Chevrolet" - Barn Finds (June 2019)
- Ford Motor Company Annual Reports 1926-1927
- "Last day of Model T production at Ford" - History.com (January 2025)
- Ford Model A Production Records 1928-1930
- Ford Motor Company Marketing Materials - Model A Color Options
❓ よくある質問(FAQ)
Q1: なぜモデルTは1923年がピークだったのですか?
A1: 1923年は戦後復興による経済好調と中産階級拡大が重なり、自動車需要が最高潮に達した年でした。しかし同時に競合他社、特にシボレーの台頭により、1924年以降はシェア低下が始まりました。フォードの単色・単一仕様戦略が消費者の多様化ニーズに対応できなくなったのです。
Q2: リバー・ルージュ工場はなぜ「世界最大」と呼ばれたのですか?
A2: 総面積1,100エーカー、延床面積1,570万平方フィート、93の建物群を持つ規模もさることながら、鉄鉱石から完成車まで一貫生産する完全垂直統合システムが世界初だったためです。日/4,000台という生産能力も当時としては驚異的でした。
✨🚙 駐車場の車1台分スペース(約2.5m × 5m = 12.5㎡)
→ 1エーカーは 約320台ぶんの駐車場。1100エーカー約36万台分です。
Q3: GMのアルフレッド・スローン戦略とは具体的に何でしたか?
A3: 「あらゆる価格帯とあらゆる目的に適した車」をスローガンに、シボレーからキャデラックまで価格帯別のブランド戦略を展開しました。これにより消費者は所得上昇に合わせてGM内でステップアップでき、フォードの単一車種戦略を根本から覆しました。
Q4: モデルTの生産終了による6ヶ月間の空白期間は経営的に問題なかったのですか?
A4: 極めて深刻な問題でした。約6万人の一時解雇、1億8,000万ドルの設備投資、そして競合他社のシェア拡大という三重の打撃を受けました。この期間にGMは市場シェアを43.5%まで拡大し、フォードの復帰後も競争は激化しました。
Q5: モデルAの成功要因は何でしたか?
A5: 最大の要因は消費者ニーズへの適応でした。モデルTの教訓を活かし、複数色展開、3速マニュアルトランスミッション、40馬力エンジンなど、競合車種に匹敵する性能と選択肢を提供しました。1929年には年間150万台を超える販売を実現しています。
次回記事: フォード1930年代:大恐慌とV8エンジン革命 →
前回記事: US-2|フォード歴史|1911-1920年:モデルTとアセンブリーライン革命

