はじめに|1910年代の日本自動車産業の全体像

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1910年代の日本の自動車産業は、「輸入頼み」から「国産化への挑戦」へと大きく転換した時代です。
では、なぜこの時代に国産車は生まれたのでしょうか?
そして、現在のトヨタや日産につながる技術の原点はどこにあるのでしょうか?
本記事では、
・日本初の国産車の誕生
・第一次世界大戦が与えた影響
・主要メーカーの挑戦と失敗
をわかりやすく解説します。
■ 本編
🚗 日本の自動車産業の始まり(1910年代前半)
橋本増治郎と快進社の船出
快進社を設立した橋本増治郎は、当時36歳。機械技術の専門家として、自動車のエンジン構造に早くから関心を持っていた人物だった。明治期の日本で精密機械を設計・製造できる技術者は少なく、彼の存在は当時としてはひときわ異色だった。
快進社が生み出した「ダット自動車(脱兎号)」は、その名の通り「脱兎のごとく」走ることへの期待を込めた命名だ¹。実際の最高速度は30km/h程度だったが、それでも当時の人々の目には十分に「速い乗り物」として映った。車両価格は約3,500円——大学卒業者の初任給が35円前後の時代に、100倍を超える金額を要する代物だった²。
👉 この時代のポイント
・自動車はまだ一部の人しか買えない超高級品だった。
・それでも国産化の第一歩として重要な存在だった。
DAT車の技術的な構成は以下のとおりだった。
| 項目 | 仕様 |
|---|---|
| エンジン | 4気筒、排気量約1,000cc |
| 最高出力 | 約10馬力 |
| ボディ | オープン4人乗り |
| 車両価格 | 約3,500円 |
東京瓦斯電気工業——ガス会社の意外な参入
1910年に設立された東京瓦斯電気工業は、現在の東京ガスの前身にあたる企業だ。ガス器具の製造を通じて蓄積した鋳造・金属加工の技術が、自動車のエンジン部品製造に転用できると判断しての参入だった³。
同社はガス燃料を動力源とする車両の実験も行っており、当時の「先端エネルギー」と自動車を組み合わせようとする姿勢は、時代をやや先取りしていたとも言える。ただし商業的な成果は限定的で、本格的な量産には至らなかった。
白楊社の職人仕事
1912年、豊川順彌が東京府巣鴨に創業した白楊社は、量産とはまったく異なる方向性で自動車を作った⁴。革張りの内装、丁寧な金属仕上げ、美しい車体——一台ずつ手間をかけて仕上げる姿勢は、工芸品に近いものがあった。
しかしこの姿勢が経営上の足かせにもなった。技術と品質を追求するほど製造コストは上がり、資金繰りは常に綱渡りだった。技術者として優れていても、事業として成立させることの難しさを、白楊社は体現していた。
こうした企業の挑戦によって、実際にどのような国産車が生まれたのかを見ていきましょう。
🚙 1910年代を代表する国産車たち
山羽式蒸気自動車——忘れられた先駆者
1910年代の話をするなら、それ以前の積み重ねにも触れておく必要がある。1904年5月7日、岡山の電機技師・山羽虎夫が完成させた「山羽式蒸気自動車」は、日本初の国産自動車とされている¹⁴。
山羽は工場動力用の蒸気機関や発電機の製作を生業としていた。地元の資産家・森房造からバス製作の依頼を受けた彼は、神戸の輸入商を訪ねて外国車を調査し、技師の解説と図面をもとに設計を進めた。石油焚きのフラッシュボイラーを動力源とするこの車は10人乗り仕様で、1910年代にも改良が続けられた。ガソリンエンジンへの移行が進む中で蒸気動力にこだわり続けたこの試みは、日本の初期自動車技術の多様性を示す好例だ。
タクリー号——日本初のガソリン車
1907年、東京自動車製作所が製造した「国産吉田式」、通称「タクリー号」が、日本初の国産ガソリン自動車として歴史に刻まれている。手がけたのは双輪商会の社長・吉田信太郎と、技術者の内山駒之助だ。
吉田は1902年に自転車仕入れで渡米した際、ニューヨークのモーターショーを見学し、ガソリンエンジンやトランスミッション、前後車軸などの部品を持ち帰った。一方の内山はウラジオストックで機械技術を習得し、自動車の運転・修理を身につけていた。この二人が輸入車を分解・研究しながら試行錯誤を重ねた末に完成したのが、タクリー号だった。
「タクリー号」という名前の由来は、走行中の「ガタクリ、ガタクリ」という音にある。静粛性には程遠かったが、有栖川宮威仁親王殿下の要請もあり約10台が製造され、日本のガソリン車製造の起点となった。
タクリー号の技術的意義
- 日本初の純国産ガソリンエンジン搭載車
- 輸入部品を基に国産化技術を確立
- 皇族への納入という品質的実証
- 後の自動車産業発展の技術的礎
宮田製作所の「旭号」
1910年、宮田製作所が発表した「旭号」も、この時代を語るうえで外せない一台だ。同社はもともと銃砲製造で精密加工技術を磨いた企業で、その技術力を自動車に転用した。詳細な仕様の記録は乏しいが、後にオートバイ製造で花開く同社の技術的素地は、この時期にすでに形成されていた。
⚙️ 1910年代前半の主な動き
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1910年 | 東京瓦斯電気工業設立 |
| 1911年 | 快進社自働車工場創設(7月1日) |
| 1912年 | ダット自動車完成、白楊社創業 |
| 1913年 | 東京瓦斯電気工業が本格的に自動車製造開始 |
| 1914年 | 第一次世界大戦勃発、国内自動車需要が急変 |
⚔️ 第一次世界大戦が日本の自動車産業に与えた影響(1914〜1918年)
輸入車の途絶という「予想外の転機」
1914年7月に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパからの自動車輸入を事実上停止させた⁵。それまで日本市場を占めていたフォードやフィアット、ルノーが入ってこなくなると、富裕層や政府機関は調達先を失った。結果として、国産車への需要が一気に高まった。
軍も同じ事情を抱えていた。ヨーロッパの戦場では、トラックによる物資輸送や兵員移動が戦況に直結していた。陸軍は国産軍用車の開発を急務と位置づけ、各メーカーに開発を促した。
政府による産業育成
1915年、政府は「軍用自動車補助法」を施行し、国産車購入者への補助金制度を設けた⁶。軍用トラック1台につき車体価格の30%という補助率は、当時としては思い切った政策だった。技術者だけでなくメーカー経営者のモチベーションも高め、自動車製造を「実験的な取り組み」から「国策事業」へと押し上げる契機となった。
三菱の本格参入
1917年から三菱造船神戸造船所で試作が始まり、1918年11月に完成した「三菱A型」は、この時代を象徴する一台だ⁷。造船業で培った金属加工技術と精密機械製造のノウハウが、そのまま自動車開発に活かされた。

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開発にあたってはイタリアのフィアット車が参考とされたが、「すべて手作りですべて国産品でつくった」ことが当時の記録に残されている⁸。エンジンから車体まで自社製造という方針は、当時の国内他社と比較しても徹底していた。
特筆すべきは車体の製造法だ。木骨のボディを樫材で組み、漆塗りで仕上げるという工法は、日本の伝統的な木工・漆芸技術を自動車製造に持ち込んだものだった。技術的な折衷というより、当時の国内で調達できる素材と技術を最大限に活用した現実的な判断でもあった。
軍需生産の定着
大戦中、各社は軍用車両の製造に重点を置いた。快進社はDAT車をベースとした軍用トラックを、東京瓦斯電気工業は小型軍用車を生産した⁹。台数こそ多くなかったが、この時期に「計画的な継続生産」という考え方が産業として根付きはじめた点は重要だ。注文ごとに作るのではなく、ある程度の数量をまとめて製造する体制が整いはじめたのだ。
🔧 戦後の民需転換と制度整備(1918〜1919年)
特需の終わりと新たな現実
1918年11月の終戦は、各社に難しい局面をもたらした¹⁰。軍需は急減し、一方で民間市場はまだ脆弱なままだった。快進社が戦後に販売したDAT改良型も、価格の高さが障壁となって思うように普及しなかった。現在の感覚で1,000万円近い価格では、購買層が限られるのは避けられなかった。
技術者たちの課題は明確だった。性能を維持しながらコストを下げる——エンジンの改良、車体構造の簡素化、部品の標準化といった取り組みが、この頃から本格化する¹¹。
石川島造船所の参入
1918年、石川島造船所が自動車事業への参入を表明した¹²。大型エンジンの製造技術、精密な金属加工、大規模な組み立て作業——造船業で磨かれたこれらの能力は、主に大型トラックとバスの製造に適していた。造船と自動車という一見かけ離れた業種が、実は同じ技術基盤の上に立っていたことを、この参入は示している。
自動車取締令の制定
1919年に制定された「自動車取締令」は、自動車の登録制度と運転免許制度を全国で統一した¹³。それまでは地域ごとにバラバラだった規則が整理され、自動車が「社会インフラの一部」として法的に位置づけられた。この制度整備は、自動車が実験の段階を終えて社会に組み込まれていく過程の、一つの節目だった。
📊 1910年代の主要メーカーと代表車種
| メーカー | 設立年 | 主力車種 | 1919年までの累計生産台数(推計) | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| 快進社 | 1911年 | DAT車シリーズ | 約100台 | 日本初の継続生産体制 |
| 三菱造船 | 1917年 | A型 | 約20台 | 完全国産化を達成 |
| 東京瓦斯電気工業 | 1910年 | 商用車各種 | 約40台 | ガス燃料車も試作 |
| 白楊社 | 1912年 | カスタム車 | 約30台 | 高級特注車専門 |
| 宮田製作所 | 1893年 | 旭号 | 約5台 | 精密加工技術を転用 |
| 東京自動車製作所 | 1902年 | タクリー号 | 約10台 | 国産ガソリン車の先駆け |
| 山羽電機工場 | 1903年 | 山羽式蒸気車 | 数台 | 蒸気動力の先駆け |
※生産台数は各種資料からの推計値
📌 初心者向けまとめ
・1910年代=日本の自動車のスタート地点
・最初はほぼ輸入車だった
・戦争がきっかけで国産化が進んだ
・この時代の技術が今の自動車産業の土台
■ まとめ
1910年代が残したもの
この10年間を一言で表すなら、「土台を作った時代」だろう。
技術面では、三菱A型が示したように「完全国産化」という目標が現実のものとなった。外国の部品に頼らず、国内の素材と技術でエンジンから車体まで作り上げる——それは単なる製造技術の話ではなく、日本の産業が自立できるという証明でもあった。
産業構造の面では、複数の企業が異なるアプローチで市場に参入したことで、競争と協調の土台が生まれた。快進社の量産志向、白楊社の職人気質、三菱の工業技術——この多様性が後の日本自動車産業の厚みに繋がっていく。
第一次世界大戦という外部要因が産業発展を加速させた事実も、見逃せない。輸入が途絶えたことで国産車への需要が生まれ、軍需が技術と生産体制の整備を促し、政府の補助政策が企業の投資を後押しした。偶然の積み重ねが、産業の形成に大きく作用した局面だった。
国際比較という視点では、1910年代の日本はまだ後発だった。アメリカではフォードがベルトコンベア方式による大量生産を確立し、ヨーロッパでも各国の自動車産業が成熟期を迎えていた。しかし日本の技術者たちは、限られた資源と時間の中で着実に追いついていた。その積み重ねが、1920年代以降の本格的な発展を可能にした。
快進社のDAT車から始まった流れは、後に日産自動車へと続く。三菱の自動車事業は今も続いている。1910年代に名前だけ知られていた多くの挑戦者たちの試行錯誤が、現在の日本の自動車産業の礎になっている。🔧
📚 参考文献一覧
- 快進社『快進社二十年史』快進社、1931年
- 東京商工会議所『大正期工業統計』東京商工会議所、1920年
- 東京瓦斯電気工業『社史』東京瓦斯電気工業、1940年
- 豊川順彌『白楊社自動車製造記録』私家版、1930年
- 軍事史学会『第一次大戦と日本工業』軍事史学会、1990年
- 『官報』大正5年8月15日号「軍用自動車補助法」
- 三菱合資会社『三菱社誌』三菱合資会社、1950年
- 荘田泰蔵『三菱自動車開発回想』三菱重工業、1960年
- 陸軍技術本部『軍用自動車調達記録』陸軍技術本部、1920年
- 『東洋経済新報』1918年12月〜1920年3月各号
- 東京商工会議所『自動車部品工業調査』東京商工会議所、1921年
- 石川島造船所『石川島85年史』石川島造船所、1968年
- 内務省『自動車取締令制定経緯』内務省、1920年
- 山羽虎夫『山羽式蒸気自動車開発記録』私家版、1920年
- 吉田信太郎・内山駒之助『タクリー号製造記録』東京自動車製作所、1910年
- 宮田製作所『宮田製作所五十年史』宮田製作所、1943年
- 日本記録認定協会『日本初の国産ガソリン自動車記録』日本記録認定協会、2020年
- 自動車工業会『日本自動車工業史』自動車工業会、1967年
- 柳田諒三『自動車三十年史』国際書院、1944年
❓ よくある質問(FAQ)
Q1: 1910年代で最も成功した国産自動車メーカーはどこでしたか?
A1: 生産台数と継続性の両面で見ると、快進社が頭一つ抜けていた。DAT車シリーズで約100台を生産し、戦前戦後を通じて事業を維持できたことは、他社との大きな違いだった。技術的な完成度という観点では、三菱A型も同等以上の評価を受けている。
Q2: 当時の自動車はどれほど高価だったのでしょうか?
A2: DAT車の約3,500円という価格は、当時の大学卒業者の初任給(35円前後)の約100倍にあたる。購入できたのは実業家や政府機関に限られ、一般の人々には縁遠い存在だった。
Q3: 第一次世界大戦は日本の自動車産業にどのような変化をもたらしましたか?
A3: 影響は二つの方向から来た。一つは輸入車の途絶による国産車需要の急増、もう一つは軍用車両の調達需要の拡大だ。さらに政府の補助政策が加わったことで、自動車製造が国策と結びついた産業として位置づけられるようになった。
Q4: 1910年代に事業から撤退したメーカーはありましたか?
A4: 白楊社は1929年に事業を停止し、東京瓦斯電気工業も自動車事業から手を引いた。技術力があっても経営の持続性に課題を抱えるメーカーが多く、黎明期ならではの厳しさがあった。
Q5: 日本初のガソリン車について教えてください。
A5: 1907年完成の「タクリー号」が日本初の国産ガソリン自動車とされている。双輪商会社長の吉田信太郎と技術者の内山駒之助が、アメリカから持ち帰った部品を基に輸入車を分解・研究して製造した。有栖川宮威仁親王殿下の要請もあり約10台が作られ、走行時の「ガタクリ」という音から「タクリー号」の名で呼ばれた。
Q6: 1910年代以前の日本初の国産車は何ですか?
A6: 1904年5月7日に岡山で完成した「山羽式蒸気自動車」が日本初の国産車とされている。電機技師の山羽虎夫が資産家の依頼を受けて製作した10人乗り仕様で、動力は蒸気だった。ガソリンエンジンを搭載した最初の国産車は1907年のタクリー号で、この二台が1910年代の産業発展の技術的な出発点となった。
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